兵庫県播州地方には屋台(やたい)と呼ばれる神社の例大祭に練り出される氏子各町の奉納物が数多く存在します。この屋台には漆塗りの黒屋根からなる『御輿屋根屋台』と三重の布団屋根からなる『布団屋台』に大別されます。いずれの屋台も、金銀の錺金具・豪傑・英雄の彫刻・繊細な刺繍など立派な装飾を備え、各地区の祭礼に華を添えています。
中区では屋台のことを『たいこ』と呼んでいます。おそらくこれは屋台中央に据え付けられる鳴り太鼓が転じたものと思われます。当サイトでは『屋台』という呼称に統一して紹介していきます。また、中区の屋台は上述の分類にしたがえば『布団屋台』に区別されます。加えて布団の四隅が反り上がり、綱で屋根が絞られていることから『反り屋根布団屋台』と分類されます。この反り屋根布団屋台は多可郡を始め西脇市・加西市など加古川流域・市川町・神崎町などで見られます。
屋台の部分名の概観:奥中屋台(令和4(2022)年)・中安田屋台(令和3(2021)年)
布団屋根:森本屋台(平成28(2016)年)・糀屋屋台(令和元(2019)年)
反り屋根布団屋台の特徴はなんと言ってもその屋根の形状です。反り上がった布団部分は弓(ゆみ)とも呼ばれます。かつては、竹をカゴ上に編んだものや木やブリキで成型し、わらや端布で丸味を持たせたものが用いられていました。最近では木製の型板に発泡スチロールやウレタンで整形し用いられることが増えてきました。布団の反り具合はこの弓の成型で決まるので、屋台の印象を大きく決定づける要素となります。弓は三重に組み合わされ、布でくるまれ布団屋根として飾り付けられるとともに、四隅に房をつけられます。中央部の盛り上がった部分は天幕(てんまく)とよばれます。中区では布団の色は黒や赤が最も一般的です。最近では、糀屋が青色の布団を、中安田が濃紺色の布団をと個性的な色を取り入れられています。
布団の中央から天幕中央にかけて綱が結い上げられます。袋綱や金綱・銀綱が用いられます。特に天幕中央での綱の結い方は地区によってこだわりがあり、一見の価値があります。
かつては白黒や白の袋綱が一般的でしたが、近年の改修を機に金綱へと切り替える地区も増えてきました。播州全体でも、袋綱は絶滅危惧種に近い存在です。袋綱の中身は古くは籾殻が、今日ではスチロール玉が用いられています。布の袋に中身を目一杯詰め込み、バチなどで叩き固めます。2本一対の袋をねじり袋綱とし、これらを屋根頂点であわせることで屋根絞りを作り上げます。見た目以上に手間と労力がかかる飾りですが、屋根絞りの飾り付けは地区ごとにこだわりがあり、その年々の個性もあらわれる見所のひとつです。
金綱や銀綱の屋根絞りも、3本の綱を用い頂点で綱を結い上げる様式(オンタ結び)が一般的ですが、かつては2本の綱で交差させただけの様式(メンタ結び)を採用していた地区もあります。
綱を固定するのがカンと呼ばれる金具です。カンには布団締めと呼ばれる金具や御幣(ごへい)などが飾られます。この綱の両脇には梵天(ぼんてん)と呼ばれる金具が配されます。梵天金具には龍・海老・鷲・飛龍・唐獅子などの神獣が描かれることが多く、反り屋根布団屋台ならではの特徴といえます。
水切り:曽我井屋台(令和元(2019)年)・軒まわり:糀屋屋台(令和2(2020)年)
布団屋根を支えるのが水切り(みずきり)と呼ばれる部位になります。上下の裏甲、水切りの三段から構成されることが多く、布団屋根の反りにあわせるように徐々に湾曲していきます。松・竹・梅などの縁起物や唐草・桐といった文様を打ち出した地金具の上に、龍・鷲・鳳凰・武者などの置き金具が配されています。なかには金具のかわりに彫刻が施されることもあります。古い屋台ほど水切りの段数が少なくまた反りも小さい傾向にあります。
水切りを支える屋根下部分は寺社仏閣建築に通ずる造りとなっています。水切り下より茅負(かやおい)があり、そこから無数の垂木(たるき)が取り付けられています。また屋根の隅には隅木(すみき)によって垂木が合わさる構造となっています。中区の屋台は垂木の間隔が等間隔で密な繁垂木(しげたるき)とよばれるものであります。また、垂木の段数は三段であり、三軒繁垂木(みのきしげたるき)と分類することが出来ます。現在の中区の屋台はすべてこの三軒繁垂木ですが、改修前には垂木が二段の二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)と呼ばれる構造を持った屋台もありました。現在の屋台の多くが垂木部分を金具で多い、その小口には金具・珊瑚をほどこした豪華な造りのものとなっています。
垂木の下には軒桁(のきげた)があり、屋根の最下段の枠組みとなります。多くの屋台は軒桁を2本あわす構造ですが、中村町では3本あわす構造となっています。
斗組から井筒:東安田屋台(令和2(2020)年)
中村町の軒桁から斗組・羽安町の井筒金具・中安田の井筒金具
軒桁を支えるものとして斗組(ますぐみ)が配されます。斗組は斗(ます)と肘木(ひじき)と呼ばれる2種類の部材の組み合わせからなっています。斗組の組み方は非常に多様かつ複雑で、この部分だけでもかなりの芸術的価値があります。屋台の製造年代・構造・大工などにより差異が見られます。肘木の先端を金具で覆ったり全体を金箔押しにしている地区もあります。黒檀や欅が用いられ、屋根からの加重と屋台練りの衝撃を緩和する役目があります。
斗組を支える部分として井筒(いづつ)があります。井筒は四本柱に乗る構造となり屋根の重みをこの部分で支えることとなります。水引幕を掛ける幕金具に加え、水切り同様、文様を打ち出した地金具や置き金具が飾り付けられます。
斗組の間には狭間(さま)と呼ばれる彫刻が入ります。神話・合戦・歌舞伎の名場面などが生き生きとした表情で彫り込まれています。かつて播州には狭間彫刻を手がける彫刻師が数多く存在し、中区の屋台も当時の名工達によるものばかりであります。改修が施された屋台でも狭間彫刻だけは手を加えずにそのまま受け継ぎ、古き良き名品を今に伝えています。
水引幕・昼提灯
四本柱の周りには水引幕(みずひきまく)が取り付けられます。中区では、水引幕は後面中央に幕間が来るように取り付けられますが、地域によっては左右中央に幕間が来るように取り付けるところもあります。四本柱に座布団や竹で作った輪っかを取り付け、水引幕にふくらみを持たせるように取り付けている地区がほとんどです。
水引幕・昼提灯とも豪華な刺繍が施されており、白や赤の羅紗地に龍や虎といった神獣や退治物・合戦模様など種々の題材が刺繍されています。武者の表情、虎や騎馬の毛並み、龍や鯉のウロコや顔つきといった刺繍の主題部分だけでなく、風雲・流水のながれといったその背景にいたる細部まで丁寧に作り込まれた作品が受け継がれています。播州及びその近隣には絹常(きぬつね)・麦本(むぎもと)・宮永(みやなが)・梶内(かじうち)などといった刺繍を扱う業者・職人集団が活躍した経緯があり、地区によってはこれらの請負の印が縫い込まれていることもあります。今日でも姫路や淡路、加東にはこれらの流れを汲む業者が祭りを支えています。
高欄の造り:森本屋台(令和元(2019)年)
高欄(こうらん)は泥台(どろだい)の上にあり乗り子が乗り込む四角い囲いのことを指します。中区の屋台は四隅に擬宝珠の付いた親柱(男柱)と呼ばれる太い柱が立っており、擬宝珠高欄という分類がなされます。また、親柱よりも内側に角柱を持つものが多く、欅や黒檀で製作されています。
高欄一面に錺金具を配したもの・木目や漆塗りとの調和を目指したもの・塗りにこだわったもの・・・地区によって趣向が異なるのもみどころです。羽安町では縁葛に螺鈿細工が取り付けられ、奥中では男柱に筋彫りの意匠が見られます。現在練り出されている中区の屋台には取り付けられていませんが、地区によっては『高欄掛け』と呼ばれる刺繍が取り付けられることもあります。中区でもかつては先代中安田屋台・改修前の西安田屋台・羽安町屋台・中村町屋台屋台・安楽田屋台で取り付けられていました。
高欄を支えるように本棒および脇棒受けが取り付けられます。本棒の先端を棒端(ぼうばな)とよび、屋台の運行の制御のためのロープが取り付けられます。本棒に関して、”購入(新調)時に屋台蔵との寸法が合わず短く切った”や”地元の(氏神さんの)山から切り出した木材で修理した”といった逸話が残る地区もあります。
2本の本棒の間を渡すように閂(かんぬき)が取り付けられます。本棒の長さに応じて、3本から2本の閂を取り付ける地区が多いですが、安坂では本棒の改修以前は4本の閂が渡されていました。
本棒の下には、屋台をさささえる台、泥台(どろだい)(台場(だいば)とも)が取り付けられます。中には、乗り子が打ち鳴らす鳴り太鼓が収納されており、太鼓隠しの格子が取り付けられています。桝格子の太鼓隠しが多いなか、森本や曽我井では菱格子の太鼓隠しが採用されています。屋台の全重量・屋台練りの衝撃を支えるため、4本の脚柱にボルト締めなどの補強がなされていることもあります。中区の屋台は、本棒に泥台が取り付けられていることが一般的ですが、中村町屋台や茂利屋台では本棒の内側に泥台の脚柱が取り付けられています。また、安田郷の屋台ではアスファルトの参道を練る宮入りの都合上、泥台の脚柱にゴムなどの緩衝材が巻かれています。
かつて屋台は、すべての巡行を担ぎ手の肩に担がれて行われていましたが、戦後になり台車が取り付けられるようになりました。中区の屋台は、昭和25(1950)年の中町織物祭りより徐々に導入され、昭和29(1954)年にはすべての地区で用いられるようになりました。中区の台車はすべて二輪で、一部の地区では補助輪を設けている地区もあります。台車に用いられるゴム輪は、現在では通常の車用のタイヤとなっていますが、かつては軍工場から引き払われた飛行機用のタイヤが多く用いられていました。これは、台車の製造が戦後の物資不足の折であったことや、屋台の重量を支えるのに好都合であったものと考えられます。
屋台用の台車は車力などの運搬用の台車扱っていた車屋・鉄工所で製作され、今でも地区によっては、『北條町 鍛芳』・『中町安坂 松本』といった烙印を見ることができます。圧倒的に地元中町の鉄工所であった松本製が多く、台車には地区名と共に地区それぞれのレリーフが施されています。特に、安田郷の三安田や天神郷の四地区は同時に台車を導入されたので、請負側も地区ごとの個性を出すように苦心されたと言われています。